常識は知恵の結晶、ただし一般論には警戒
「常識」というものは、決して否定すべきものではない。むしろ、それは時代を超えて蓄積された知恵の結晶であり、私たちの社会を円滑に動かす基盤となっている。たとえば、「赤信号では止まる」「嘘をついてはいけない」といった常識がなければ、社会はたちまち混乱に陥るだろう。
もちろん、私は今日も堂々と黄色信号を渡り続けている。気づけば「そろそろ赤なんじゃない?」と焦り始めるタイミングが来る瞬間ギリギリまで粘って、いよいよ本当にマズそうだと感じた瞬間になってようやく動き出す——そんな、なんとも言えない堕落にまみれた生き方を続けている。……赤じゃないなら、まあいいっしょ。
さてしかし、その常識を単純化し、誰にでも適用できる一般論へと落とし込んだとき、話は違ってくる。一般論とは、文脈を省略し、複雑な問題をシンプルに整理しようとするものだ。確かに、それは便利ではある。結束バンドで一気にコードを固定すれば気分もいいように。
しかし、現実はそんなに単純ではない。浅い一般論に頼れば頼るほど、思考は型にはまり、物事の本質を見失ってしまう。だって、固定したケーブルからいざ一本だけ抜きたくなったときにはもう地獄。
常識は必要。だが、そこから派生する一般論を無批判に受け入れることには、警戒が必要だ。
SNSの正義と、一般論としての常識
近年、「オールドメディアは偏向報道が酷いから信用ならない」といった論調をSNSで頻繁に目にする。確かに、かつてのメディアは一方通行の情報伝達しかなく、報道の偏りが問題視されてきた。しかし、それを理由に「オールドメディアは悪、SNSこそが真実」と結論づけるのは、あまりにも短絡的ではないか。
SNSは、ある種の「正義」を是としている。そこでは「良いもの」「悪いもの」が極端に単純化され、わかりやすい二元論が好まれる。そして、この正義の土台にあるのが、「常識から生まれた一般論」なのではないかと思うのだ。たとえば、
- 国民が豊かになれば経済は発展する → 減税を阻害する財務省は悪だ
- 企業は利益を追求する → だから企業の広告はすべて偽りだ
- メディアは偏向する → だからオールドメディアはすべて信用できない
こうした論調は、一見もっともらしく聞こえるが、その実、浅い一般論にすぎない。そして、それを疑問視することすら許されない「空気」が形成される。
私自身、最近ではバズっている記事を見かけると、必ず裏を取るようにしている。すると、驚くほどの確率で「異なる視点」が見えてくる。SNSで拡散される情報の多くは、発信者のバイアスに満ち、感情的な文脈の中で語られる。オールドメディアの偏向が問題視される一方で、SNSの方がはるかに強いバイアスを持ち、都合の良い情報だけを切り取って流通させていることに、どれほどの人が気づいているだろうか。
SNSにおける偏向は、単に個々の発信者のバイアスによるものだけではない。それをさらに強化しているのが、プラットフォームのアルゴリズムの存在だ。
SNSのアルゴリズムは、ユーザーが「興味を持ちそうな情報」を優先的に表示する。これは一見、利便性の高い機能のように思えるが、実際には極めて強力なバイアスを生み出している。自分が一度「いいね」したり、シェアしたりした情報と似たものが次々と表示され、気づけば同じような意見ばかりが流れてくる。
これにより、ユーザーは「異なる視点」に触れる機会をどんどん失っていく。そして、同じような情報ばかりを浴び続けることで、「これこそが真実だ」「これが常識だ」と錯覚してしまうのだ。かつて、オールドメディアが一方的に情報を提供していた時代には、「報道の公平性」が一定の基準として求められていた。しかし、SNSでは公平性よりも「エンゲージメント(反応)」が優先される。その結果、より過激な表現や、より感情を刺激する情報が拡散されやすくなり、バイアスは加速する。
「オールドメディアは偏向している」という主張はよく聞くが、SNSこそが偏向を加速させる仕組みを内包していることに、気づいていない人は多い。アルゴリズムによって作られた「偏った常識」の中に閉じこもらないためには、意識的に異なる視点を探しに行く姿勢が必要なのではないか。
もちろん、オールドメディアも完全に中立ではない。しかし、彼らは最低限、「公平性」や「中立性」といった概念を意識せざるを得ない立場にある。一方、SNSにはそうした責任がなく、むしろ感情を煽り、単純なストーリーを求める傾向がある。その結果、「正義」という名のもとに、一般論が拡散し、それが「新たな常識」として受け入れられてしまうのだ。
また、オールドメディアと一口に言っても、その内包するものは多彩だ。テレビ、新聞、書籍、ラジオ——それぞれ異なる特徴を持ち、一概に括ることはできない。中には情報の取得に時間がかかるものも多く、効率が求められる現代においては、そうした「時間的コストの高さ」がオールドメディアの弱点と見なされることもある。
情報は裏を取ろう
「常識」が一般論に転じたとき、そこには危うさが生じる。そして、一般論が強固になりすぎると、それは「正義」となり、異論を許さない空気を生む。
情報の流れはますます速くなり、表面的な理解が広がる中で、私たちに求められるのは、「少しだけ深く考えること」「別角度の視点を取り入れること」ではないだろうか。一つの情報を目にしたとき、「これは本当にすべてなのか?」と問い直し、異なる視点に目を向けること。それが、浅い一般論に流されないための唯一の手段だ。
世の中に溢れる情報の多くは、単純化され、感情を刺激し、拡散されることを前提に作られている。しかし、私たちがその波に飲まれるのか、それとも一歩引いて思考するのか。その選択が、私たちの「知」のあり方を決めるのではないかと思う。
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